カテゴリー「その他」の39件の記事

2016年1月26日 (火)

40年

 40歳になった。素直に嬉しかった。

 このブログを書き始めた頃は31歳。当時は毎日のようにゲーセンで麻雀格闘倶楽部を打ち、それをブログに書く。そして、いつからかブログを書きたいが為にゲーセンに行く。これの繰り返しだった。

 そんな30代を思い返してみれば、前半はまるで暗闇を彷徨っているかのような5年間で、微かな光だけを頼りに歩いてきた。そんな感じ。

 後半の5年間は、生まれ変わったかのように太陽の光を全身に浴び、もうゲーセンを必要としない身体になった。趣味も増えたし、新しい仲間も増えた。当時は全盛だったブログも、今はSNSの短文全盛時代。長い文章を書いても、読む人は少ないであろう。

 趣味の変化。そして、ブログの衰退。このブログを更新する機会も無く、自分にとってのブログの役目は終えている。今までありがとう。

 あれだけ打ち込んでいた麻雀格闘倶楽部も、今となってはほとんど打つ機会は無いのだが、2016年になってから3回ほど遊んできた。感想は、何もない。書きたいことも無い。

 他の方のブログを拝見したところ、麻雀格闘倶楽部そのもののゲーム性がつまらなくなっているらしいが、本当にそうなのだろうか。私にとっては、ゲームが変わったのではなく、私自身が変わったように感じる。

 物事には卒業するタイミングがある。ガキの頃には楽しかった遊びも、大人になるとあまり楽しめないこともある。麻雀格闘倶楽部は永遠に楽しいゲームだと信じ、小生が大人になって卒業したから、そのゲーム性を楽しめなくなってしまったと信じておこう。

 さて、40代が始まった。どこまで生きられるかわからないが、また新たなブログを書きたくなるような、そんな出会いがあることを願いつつ、必死に楽しく生きていこう。そう心に誓った誕生日の夜。
 

2015年7月17日 (金)

反町たんたん

2015年7月17日(金)

 台風11号が四国に上陸し、台風から遠い関東地方でも、時より強い風雨が吹き付けた。

 悪天候の中、無事に外回りの仕事を終え、いわゆる花の金曜日。今日は外で日本酒を飲んで帰る予定だったのだが、相手にドタキャンされてしまった。残念無念。

 さて困った。一人で寂しく晩メシを食ってやろうじゃないか。京浜急行の神奈川駅で下車し、目当ての人気ラーメン店へと、ひたすらに歩く。ようやく見えてきたが、灯りが無い。シャッターに貼ってある紙を見れば、台風の影響により臨時休業だそうで、本日2度目の残念無念。

 その近くの他のラーメン屋は、外から店内を見るだけで通過。もういいや。腹が減っては戦が出来ぬ。が、戦はしないから腹が減ってても良い。

 そんなくだらないことを考えながら、晩メシを諦めて反町駅周辺に到着した頃、あの店が脳裏をよぎる。

 反町たんたん。そうだ!たんたんに行こう。

 思い出の味である『肉ネギ炒め』とライスを注文した。

 2001年。専門学校の新人講師だった頃、月木の夜の講義が終わると必ず、先輩や同僚と一緒にこの店でメシを食べて帰っていた。

 授業が上手くできない、次の講義の準備が進まない、そんな悩みを聞いてもらっていたことを思い出す。

 あの頃は、兎に角つらくて、苦しくて、逃げ出したくて、それなのに今になって思い出すと日々が楽しくて、充実してて、懐かしく感じてしまう、なんとも不思議な4年間だった。

 この店を最初に教えてくれたのは時田先生。当時の社歴で言うと私より3つ上。職場では上司からも後輩からも愛される人で、私にとって憧れの先輩だった。

 その時田先生が病でこの世を去って、もう4年半の月日が流れた。教えてもらったことは今でも自分の教訓として生きているし、あの笑顔も忘れない。

 私が時田先生を超えることができたのは、年齢だけだ。

 肉ネギライスを食べていたのは、たった10分ほどの時間だったが、多くの思い出が蘇り、14年前にタイムトラベルしたかのような、そんな不思議な金曜日の夜。

2014年9月30日 (火)

 ・出る杭は打たれる

 すぐれてぬけ出ている者は、とかく憎まれる。また、さしでてふるまう者は他から制裁されることのたとえ。(広辞苑より)

 私が予備校に通っていた頃、当時の人気講師が講義の中で、このことわざに対し、『出る杭は、打たれても出る!』と力説されていたことが、懐かしい記憶として残っている。

 その6年前、12歳の頃。『杭は、出る前から打たれる。』という実体験を書きたいと思う。


 中学校の入学式を終えた数日後。私は小学生時代からの友人のS君と一緒に職員室に向かっていた。右手に、陸上部への入部届の紙を握りしめている。

 緊張しながら職員室の戸を開け、中に入る。陸上部の顧問がどこにいるのか判るわけもなく、おそらく近くにいた名も知らぬ大人に聞いたのであろう。教えられた方向に進み、顧問の先生に陸上部への入部届を持ってきた旨を伝えた。

 それまで笑顔だったその陸上部の顧問は、私が提出した入部届を見た途端、眉間にシワを寄せ、表情を曇らせ、職員室中に轟くような大声で叫んだ。


 『おーい!羽島先生!拓先生!』


 職員室中の大人がこちらを振り向き、パンチパーマの男と、おそらく拓先生なる大人が駆け足で近寄る。


 『関先生、どうしたの?そんな大声出して?』

 『これ見てよ!』


 私が提出した入部届を大男3人が睨み付け、すぐさまその眼光は、12歳の私に向けられた。


 『お前が○○の弟か?今年入学することは知ってたぞ。まさか関先生の陸上部に入りたいとは度胸がいいな!お前だけは不良にさせないからな!』


 目の前のパンチパーマの男が大声で罵る。私は、なんとなく状況を理解することができたが、友人のS君は目が点のまま私を見つめていた。


 私は、男3人兄弟の末っ子として育った。8歳上と6歳上の兄がいる。6歳上の兄が中学校を卒業して3年後に、私は同じ中学校に入学したのである。

 幸か不幸か、私の名字は地域的には珍しい存在であるため、パンチパーマの男は、『あいつの弟!』だと入部届を見ただけで判断することができたのである。

 6歳上の兄は中学生時代に不良だった。いや、40代の現在も不良なのかもしれない。本人は、『やんちゃだっただけ。』と否定しているから、やんちゃだったことにしておこう。

 そのやんちゃだった兄に、関先生もパンチパーマの男も大変迷惑を被ったようで、その弟の入学が、悪夢の再来かのように感じている様子であった。

 そう、これこそが『杭は、出る前から打たれる。』の実体験である。


 数日後、何事もなかったかのように陸上部へ入部し、普通の中学1年生として過ごしていた1月の上旬。奇しくも、そのパンチパーマの男の授業中に、担任から呼び出しを受けた。


 『御家族から電話だ!急げ!』


 言われるがままに受話器を耳に当てる。電話の相手が誰だったかは覚えていない。もしかしたら、その6歳上の兄だったかもしれない。父が危篤状態とのことだった。

 中学校から徒歩10分ほどの場所にある病院までダッシュした。泣きながら走っていたような記憶もあるが、とにかく必死に走った。病室に到着すると、すでに人工呼吸器に繋がれた父がベッドに横たわっている。

 数日後に行われた通夜には、関先生もパンチパーマの男も参列してくれた。法事を終え、中学校の普段の生活に戻った私に対し、2人とも優しい言葉を掛けてくれた。


 中学2年の3学期、突然パンチパーマの男から職員室への呼び出しを受けた。悪いことをした覚えはない。不安な気持ちを隠しきれないまま、私は職員室のパンチパーマの男の前に立った。


 『この学校から、お前を奨学金の対象者として推薦したいと思っている。』


 14歳の脳味噌には到底理解できない内容だったが、よくよく聞いてみると、母子家庭を支援する奨学金があり、この中学校から1人だけ推薦できるその制度に、正式に君を推薦したい、とのことだった。


 『他の中学校からも推薦者がいるだろうから、必ず奨学金が貰えるという保証は無いんだが、推薦させてくれ!』


 なんとも有り難い話だというのに、当時は職員室で緊張していたため、愛想無い態度を取ってしまったが、この文章を書いている今、涙が頬をつたっている。

 入学早々、出る前から打たれたはずの杭を、今では倒れそうな杭を先生たちが支えてくれていた。あの恩は今も忘れてはいない。忘れてはいないのだが、恩返しすることも出来ていない。『ありがとうございました!』の一言さえ伝えていないのである。

 いつの日か、感謝の言葉を伝えられる日が来ることを願う。それまでは、すべてのことに感謝する気持ちを忘れずに、懸命に生きていこうと誓った秋の夜長である。

2014年5月 2日 (金)

母の背中

 中学校に入学して3日目の朝、厳格な父がトイレで倒れた。たまたま近くにいた私がトイレの扉を開けると、便器がどす黒い血で染まっていた。

 すぐに救急車を呼び、父は病院に運ばれたが、10ヶ月の闘病生活の甲斐もなく、みんなに囲まれて旅立った。享年48。私は12歳だった。

 無事に葬式を終え、ふと不安に感じることがあった。それは住まいのこと。当時、新子安駅近くの社宅に住んでいた。父が死亡退職したのだから、もう社宅に住むことができないのではないか。幼馴染みの皆と遊べなくなるかもしれない不安に駆られた。

 しかし、会社の計らいにより、母親が代わりに会社で働くことを条件に住み続けてもよくなったらしい。子供心に嬉しかったことを記憶している。

 母は、それまで続けていたパートを辞め、父が勤めていた会社でパートを始めた。晩ご飯の時に仕事の話を聞いてみると、工場で白い粉が入った重たい袋を運び、機械に投入する仕事をしているとのことで、家に帰って来ると、耳の中まで粉まみれだった。母の口から愚痴は聞かなかったが、幼い私にも仕事の大変さが伝わってきた。


 「いってきまーす。」


 中学2年の8月の朝。いつもように母は仕事場に向かった。

 20分後、部活へ行く準備をしていると、家の電話が鳴り響いた。相手はさっき出掛けたばかりの母だった。


 「ごめん、作業着を忘れちゃったみたいで・・・、」


 テーブルの上に目をやると、見慣れた作業着袋が置いてある。


 「悪いけど持ってきてくれる?」


 炎天下の中、私はその作業着袋を手に、母が働いている工場へと嫌々歩き出した。


 「20分も歩くのか。面倒臭いな。なんで忘れるんだよ。」


 ぶつぶつ独り言を言いながら、新子安の駅前から京浜工場地帯方面へ歩いて行くと、陽炎の向こうから小走りで向かってくる母の姿が見えてきた。電話を切った後、自宅方向へ戻ってきてくれたようだ。


 「ありがとう。助かったわ。」


 私は無言で作業着袋を手渡すと、母は急いで工場へ向かって走り始めた。すぐに私も自宅に向かって歩き始めたが、10秒ほど歩いたところで何となく振り返った。すると、母の小さな背中が陽炎に揺れている。その姿が消えるまで私はずっと見つめていた。

 社宅に住み続けるために、大変な仕事を愚痴も言わずに続けてくれている母に対し、感謝の気持ちが溢れ出し、申し訳ない気持ちで一杯になった。

 あれから25年。あの日以来、母に対する感謝を忘れる日はない。出来の悪い息子だが、母が元気なうちに親孝行しようという気持ちだけは誰にも負けないであろう。あの頃、好きなこともできずに朝から晩まで働いてくれた母。老後は、少しでも好きなことをやらせてあげることが親孝行になろう。本当は孫の顔を見せてあげることが最高の親孝行なのかもしれないが、何とも難しい。

 子は親の背中を見て育つという。あの背中を見ていなければ、今の自分は無いかもしれない。母に感謝。ありがとう。

2013年7月24日 (水)

振り返り

 2012年の正月、ブログに目標を掲げていたことを思い出した。今更ではあるが振り返ってみる。

・墓参りのため和歌山県に行く:×

 25年前、父の遺骨は分骨され、静岡と和歌山でそれぞれ眠っている。静岡は車でふらっと寄れるのだが、横浜から見ると和歌山は遠い。

 墓を守ってくれている叔父とも、普段は連絡を取っておらず、なかなか腰が上がらない。2013年、今年こそはと気合いが空回りしなければよいが。

・名古屋で飲む:◎

 当ブログで知り合うことができた『いしじま』さんと、2012年の夏に将棋を指しながら飲むことが出来た。2013年も一緒に飲みたい。

・石川県でダーツバーを経営している友人の店に再訪する:△

 2012年の秋、日本酒仲間4人で石川県を訪問した。寿司を食べ、酒蔵を回り、砂浜をドライブし、とても楽しい旅行だった。このブログで記述したかったのだが、理由あって書く機会を逸してしまった。

 また、この旅行は過密日程であったため、友人が経営している店に寄る時間は無く、またの機会と相成った。楽しみは後に取っておくタイプだから良しとしよう。

・フルマラソンに挑戦する:△

 2013年7月、ついにジョギングをスタート。あまりの体力の低下に愕然としたが、少しずつではあるが走れるようになってきた。

 2013年の秋にハーフマラソンに出場し、来年はフルマラソンに挑戦する予定。さて、どうなることやら。

・草野球に参加:◎

 2012年1月、友人が所属しているチームに参加させていただき、現在も続いている。これからの暑い季節、熱中症には気を付けなければなるまい。

・ゴルフを始める:△

 2013年の春、友人と打ちっ放しに数回行ったが、まったく球が飛ばない。飛ばないのだから面白くない。

 そんな状況だというのに、コースデビューをしてしまった。まともに球が飛ばないのだから、ほどんどのホールで途中棄権。ただ、綺麗なゴルフコースに魅了されてしまい、いつかは普通に回れるようになりたいと心に誓う。


 振り返ってみると、少しずつではあるがすべてが実現に向かっている。昔、偉い人が言っていた。夢は絵に描いて、見続けることで実現する、と。

 ブログに書いて、それを見ることで動き始めたものが数多くある。それがこのブログの存在意義なのかもしれない。もう更新することを辞めようかと思っていた。しかし、今後も細々と書き続けていくことを決心した蒸し暑い夏の夜。

2013年7月21日 (日)

墓参り

7月20日(土)晴れ

 仕事は休みだが、いつもと同じ時間にケータイの目覚ましが鳴り響く。先週の猛暑が嘘のように爽やかな土曜日の朝。

 今日は母と祖母を連れての墓参り。片道2時間の小旅行だ。いつもの準備を済ませ、ぶどうパンをコーヒーで流し込み、乗り慣れてきた愛車の後部座席に母と祖母を乗せ、出発進行。

 保土ヶ谷バイパスから東名高速に乗るが、横浜町田ICから厚木ICまで渋滞が続いている。学校も夏休みに入ったことだし、家族連れで旅行へ行く人が多いのであろうか。

 中井PAで休憩し、大井松田ICで高速道路とサヨナラし、246号を西へと下っていく。途中、2輌編成の電車と併走。世界の車窓からのBGMを脳内で再生させながら、ひたすら山道を走り続ける。

 出発してから2時間強。ようやく目的の霊園へと到着した。標高が高いため、空気がひんやりしていて気持ちが良い。

 まずは父が眠る墓へと到着。花を供え、線香をあげ、墓石に水をかける。手を合わせた母が墓石に向かって声を掛ける。

 『お父さん、誕生日おめでとう!』

 そう、今日7月20日は父の誕生日。もし生きていれば72歳の年男だ。墓参りと言えば、お盆や命日等にするものなのであろうが、生前の記念日や誕生日に来てもバチは当たるまい。誕生日おめでとう。

 次に祖父と叔父が眠る墓へ。こちらでは祖母が墓石に向かって一言。

 『おじいちゃん、早く迎えに来てよ~!』

 この言葉を初めて聞いてから早10年が経つ。すでに風物詩と化しており、これが祖母の長生きの秘訣なのかもしれない。

 近くでランチを済ませ、帰りは渋滞もなく無事に帰宅した。昼寝をし、晩飯を食べ、ジョギングをして平和な1日が終わる。

2012年7月18日 (水)

2012上半期

7月18日(水)晴れ

 関東地方の梅雨も明け、うだるような陽射しに身体がついていかない。今年の夏も猛暑となるのであろうか。先が思いやられる。

 さて、ブログを更新することすら久しぶりになってしまったが、その要因はMFCをほとんど打っていないためである。ここ3ヶ月でMFCに使ったゼニは300円也。ついにMFC依存症から脱出した。してやったり。

 打たなくなった理由は様々だが、草野球チームに入部したのが最大の要因である。ほぼ毎週日曜日は野球関連の予定があり、平日はマイカー出勤になったため仕事帰りにふらっとゲーセンに立ち寄ることも無い。

 仕事をクビにでもならない限り、今後も買い物などの帰りに少しだけ東風を打つ程度となろう。さよなら、麻雀格闘倶楽部よ。

 MFC依存症を脱却してみると、不思議なくらい時間が増えた。その空いた時間で、草野球・リアル麻雀・たほいや・将棋倶楽部24・ダーツ等を楽しんでいる。

 草野球は悔しいくらいヒットが少ない。ほぼ初心者なのだから必然なのであろうが、もう少しチームに貢献したいところ。

 リアル麻雀も悔しいくらい勝てない。先制立直をした後、追っかけられて一発で掴まされるケースが多く、己の運勢に辟易している。これは時間が解決してくれるさ。

 たほいやは大人の遊びとしては秀逸で、死ぬまで続けていきたい。このゲームに出会えたことに感謝。

 将棋倶楽部24は今年から参戦した。自分の実力がわからなかったためR600からスタートし、34戦を終えた現在R820前後まで辿り着いた。もっと上を目指したいところ。

 ダーツは投げる回数が減ったものの、カウントアップは平均700点台の調子を維持している。

 MFCは卒業したが、こうして活字にしてみると、充実した日々。仲間に感謝。

2011年6月26日 (日)

安心と不安

 前回の記事を掲載した後、口頭・電話・メール・コメント等で多くの方々から温かいお言葉を頂戴しました。誠にありがとうございました。

 5月下旬から心臓が痛み始め、3週間が経過しても状況が好転しなかったため、循環器科専門の病院にて精密検査を受けた。

 心電図、心臓エコー検査、血液検査、24時間心電図、運動時心電図など。

 上記検査の結果、心臓に異常は見当たらないとのこと。してやったり。

 循環器科の医師によれば、とくに心臓に関する薬で治すような状況ではなく、仕事のストレスや長い緊張状態が続くと心臓に痛みが出ることもあるそうで、ゆっくりしていればやがて治るらしい。

 現在も多少の痛みがあり、少し歩くだけで動悸が激しくなるのだが、医者が大丈夫と言うのだから大丈夫。昔から、占いと医者の言葉は、自分に都合の良いところだけを信じることにしている。これでいいのだ。

 仕事は、クビを覚悟で長期休暇を頂くことができたため、しばらくは税理士試験の勉強をしながら、ボロボロの身体を治すことに専念しよう。

2011年6月 6日 (月)

 前回の更新から2ヶ月が経過してしまった。2011年1月22日にカードを失って以来、一度もMFCを打っておらず、新しいカードへのデータ移行もしていないため、ブログ更新の機会が乏しい。

 また、税理士事務所に勤める小生にとって、上半期は多忙を極め、文字通り心を亡くす5ヶ月間と相成った。3月下旬には咳が3週間ほど続いてしまい、電話で会話が出来ない程の状況に陥った。

 5月下旬から突如心臓が苦しくなった。少し歩いただけで、まるで全力疾走をした後のような鼓動が続き、しばしば胸に痛みが走る。人生で初の症状だ。

 循環器科で診察してもらったところ、とりあえず異常は見当たらず、重箱の隅を突くような精密検査を受ける前に、過労が原因であることを疑った方が良いとのことで、とにかく症状が消えるまで休養することを勧められた。

 小さな事務所に勤務している身としては、長期の休暇を取得する余裕は無いのだが、さすがに心臓の痛みを隠してまで働く気力は無い。クビを覚悟で、治るまでゆっくりするしかなさそうだ。


 年始の誓いで、フルマラソンに挑戦することを宣言し、多方面から反響をいただいていたのだが、このままでは走ることは疎か、歩くことも辛い。残念だが今は完治することを信じて、ジッとしていよう。

2011年3月27日 (日)

願い

 平成23年3月11日(金)、晴れ。確定申告の期限に追われ、朝から必死に仕事をこなし、夕方以降に約束しているお客様との打ち合わせ資料を作成しながら、正午を迎えた。

 昼休みを終え、いつもの平凡な午後の時間が過ぎていくはずであったが、あの忌々しい揺れが渋谷の街にも襲いかかった。

 過去に経験したことの無い長時間の揺れ。窓の外を見ると、首都高の照明灯が激しく揺さぶられ、向こう側の10階建てのビルがまるで蒟蒻のように震えていた。

 事務所の同僚は書籍棚が倒れないよう支えていたが、私は身動き一つ取ることができなかった。情けない。唯一デスクに座り続けた小生にできたことは、東北地方で震度7の速報を伝えることだけだった。

 所長のPCでテレビを点けると、信じられない光景が繰り返し流れている。日本がとんでもない状況に陥っていることは容易に理解できた。

 運良くケータイが繋がり、母親の無事を確認することができ、お客様とのアポイントもキャンセルできた。余震が続いたが、ようやく周りを見る余裕ができた頃、窓の外の首都高は封鎖され、国道246号線は大渋滞。いつもは閑散としている歩道は、群衆で溢れかえっていた。

 私が実家に到着できたのは、深夜の2時過ぎ。自宅が無事であったことに感謝しつつ、自分に何が出来るのか自問自答を繰り返しながら、眠れずに朝を迎えていた。

 地震、津波、原発事故、計画停電、放射能汚染。あれから2週間、戦々恐々の事態が続いている。街の灯は消え、東京や横浜の経済は落ち込んでいる。

 震災当初は節制を心掛けようと考えていた。しかし、被災地が復興するためにも、被災地以外の街が倒れては意味が無い。今まで通り、普通に生活し、その上で義援金を送り続けよう。

 
 3月27日現在、気になることが一つ。それは政府が発表する情報について。健康に影響は無いレベルという言葉が繰り返されている。とりあえず素直に信じよう。

 歴史に詳しいわけではないが、とある戦争で最後まで負けを認めず、南から北から陸戦が始まり、2つの原爆を落とされ多数の尊い命を失った国があったと聞く。大丈夫という言葉を繰り返し、犠牲者が増えないことを切に願う。

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