カテゴリー「パチンコ、パチスロ:回顧録」の9件の記事

2009年7月 4日 (土)

田山幸憲氏を偲んで

 本日2009年7月4日は、私が敬愛する田山幸憲氏の8回目の命日である。生前、好んで打っていたナナシーとも読み取れる7月4日に他界された。

 田山幸憲氏をご存じない方も多々いらっしゃるであろうが、生前はパチンコ必勝ガイドに『パチプロ日記』を連載していた方である。

 たびたび私のブログは、田山プロの文章に似ているというご指摘を受ける。私は元来読書が嫌いで、幼い頃から人様の文章を読んだことが無い。そんな私でさえ田山さんの文章には感銘を受け、隔週で発売される雑誌を心待ちにし、何度も何度も読み返したのである。

 つまり、私にとって文章イコール田山さんであり、必然的に似てきてしまうのであろう。

 田山さんの文章に出会ったのは、私が大学に入学した頃のこと。タテの比較、打ち回り、波の理論、文章力、表現力。どれをとっても一流の文章であった。若き日の小生は、田山氏の魅力に惹かれ、憧れていた。

 田山さんの背中を追い、私もパチプロを目指した。毎日のようにパチンコ屋に通い、それなりに稼げるようにはなったが限界を感じ、足を洗った。

 私は田山さんの足元にも及ばなかった。しかし、田山さんは常々誌面上で他人に対し『パチンコなど辞めてしまえ!』とよく仰っていた。これで良かったのであろう。そうですよね、田山さん。

 もし田山さんが今も元気ならば、現在の日本をどのように表現されるのだろうか。天国から今のパチンコ業界をどのように見てらっしゃいますか。

 お酒と麻雀を愛していた田山さん。私は今も、自然と貴方の背中を追いかけているようです。生前、一度もお会いすることはできませんでしたが、天国でお会いできた暁には、ご一緒に麻雀でも打ちましょう。

 田山さん、思い出をありがとう。安らかにお眠り下さい。
 

2008年8月19日 (火)

パチスロの殿堂

 上野アメ横の一角に、『パチスロの殿堂』という名のゲーセンがある。一見するとパチスロ専門店だが、おそらく倒産して、ゲーセンという形態に変えたのであろう。換金が無いため、全台設定6で営業されている。

 初めて入店した際は、ゲーセンとは知らず、夢のような店だと勘違いをした。端から端まで、1号機から4号機までの名機がずらりと並んでいる。

 残念ながら小生は4号機世代のため、昔の機種は詳しくないが、それでも『ニューペガサス』、『リバティベル』、『センチュリー21』、『アラジン』、『アポロン』、『ワイルドキャッツ』などは、その容姿が懐かしい。

 クランキーコンドルが空き台であったため、1,000円札を投入。すぐにレギュラーを引き、そこからビッグとレギュラーが面白いように連荘した。2時間で3,200枚をカチ盛りしたところで帰ってきた。

 それにしても、コンドルは打っていて楽しく、懐かしい。今日一番嬉しかったことは、ビッグ獲得枚数で511枚を記録したこと。これは、セミプロ現役時代を含めてもベスト5に入る好成績だ。してやったり。

 また上野に行った際は、遊びに行こう。次はタコスロのビタ押しに挑戦予定。

http://www.okura-property.co.jp/dendo/

2008年8月 5日 (火)

パチスロとの出会い④

 私は、就職活動もせずに大学を卒業した。卒業間際に、それまで蓄えてきた預金のほとんどを使い果たし、所持金は、たったの7万ほどであった。

 途方に暮れていた私は、パチプロを立派に続けている親友(通称:ナナシー)と喫茶店で昼食を食べた。

 窓越しに空を見上げながら、『これから、どうしようかな。』と言った私に、彼はこう言った。

 『なんとかなるよ。』

 何気ない一言だったが、あの時の私に勇気を与えてくれた。

 少ない所持金を手に、慣れ親しんだハナビの設定判別で稼ごうとパチ屋へ向かった。

 初日に3万ほどの敗北。残金4万円・・・。

 しかし、不思議と前向きだった。『明日はなんとかなるさ』と。

 翌日に実際、大きく勝つことができ、その後順調に所持金を増やすことに成功した。

 その1ヵ月後、私にとって最後の攻略機種が登場する。その名は『イプシロン』。当時の山佐にしては珍しい技術介入可能な機種だった。この機種のおかげで、日当3万円超を可能にすることができ、安泰の日々を暮らしていた。

 3ヶ月で80万円程の貯金ができたある日、大学時代の女友達と会う機会があった。その友人の勧めで、税理士の資格を目指すことになり、その後、無事に就職することができた。

 たった7万円で勝負したあの日から、今のような日々は想像もしなかった。資格勉強をするための受講料を稼ぐことが出来たイプシロンに感謝しなければならない。

 良くも悪くも、パチスロのおかげで、現在の自分がある。

パチスロとの出会い おわり

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2008年8月 4日 (月)

パチスロとの出会い③

 クランキーコンドルと出会ったのは、大学2年の頃。いつまでも良い日が続くものでもなく、大学4年の頃には、店側も全台設定1にして対抗していた。

 私も他の機種へ、より良い稼ぎを求め打ち回った。『タコスロ』、『アステカ』、『ハナビ』。

 タコスロのリプレイハズシは、1コマ目押しが要求されたが、空回しハズシ打法を会得して、高い稼ぎを達成し、DDT打法時の4コマスベリに興奮する毎日だった。

 アステカは、新装開店狙いで打っていた。

 ハナビは、コンドル同様2コマ目押しで良かったため、好んで打っていた。

 大学を卒業するまで、就職活動もせずに、黙々とパチスロに興じていた日々が懐かしい。

 「こんな日々を続けていければ・・・」

つづく

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2008年8月 3日 (日)

パチスロとの出会い②

 『クランキーコンドル』が初めて雑誌に取り上げられたとき、その大当たり確率の良さに驚きを隠せなかった。

 大学の近くのパチ屋に導入された当初は、勝てない日々が続いたが、技術介入が判明し始めた頃から状況は一変した。

 『リプレイハズシ』、『DDT(KKK)打法』。技術が有れば有るほど勝率が上がる。来る日も来る日も青い筐体の前で腕を磨いていた。

 隣に上手な人がいれば、その技術を盗んで自分のものにし、毎日のように8,000回転以上ブン回していた。

 青テン(=青7上段テンパイ)に興奮する日々。クランキーコンドルで稼げたおかげで、大学4年間一切バイトをせずに過ごすことができたのである。

つづく

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2008年8月 2日 (土)

パチスロとの出会い①

 『F.ウォーズ』で堅く稼いでいた大学1年生の私に転機が訪れる。幼い頃からのパチ仲間(通称:ナナシー)の一言。

 「スロットも面白いよ。」

 当時、パチスロにはモーニングサービスというものが存在していた。朝一、意図的に数台を大当たり状態にしているのである。当然人気のある店には長蛇の列ができ、過激な店では一シマ全台がフィーバーということもあった。

 そこで得たコインでスロットの魅力に惹かれていった。『ジャックポットⅡA』、『イヴX』、『ダイバーズ』。朝早く起きられれば、必ずパチンコ屋に並ぶようになった。

 スロットを始めた当初は負けまくった。一ヶ月で15万ほど負けた記録がある。しかし、すべては授業料だと割り切り、パチスロ雑誌で勉強する日々が続く。

 やっと勝負ができるようになった頃、衝撃的な出会いがやって来た。伝説的な名機『クランキーコンドル』である。

つづく

2008年8月 1日 (金)

パチンコとの出会い③

 高校3年になると、部活を引退し、受験勉強も疎かにしてパチンコ屋へ向かう日々が続く。

 時代は連チャン機全盛時代。『F.クィーン』、『F.パワフルⅢ』、『ダービー物語』、『エキサイトジャック』。どれも思い出すだけで興奮してしまう。あの面影や音響が懐かしい。撤廃を余儀なくされた規制が憎い。

 この頃になると、中学時代からのパチ仲間(通称:ナナシー)がセミプロ化しており、今では彼はプロとなり、立派にパチンコで生計を立てている。

 またこの頃、今は亡き田山幸憲氏に憧れ始めた。誌面上で活躍されている田山氏の文章を楽しみにし、パチンコで稼ぐこと自体に憧れ、私も背中を追った。

 1年間の浪人生活を経て、晴れて大学生となった私は自由を謳歌した。まずはパチンコのプロを目指してみようと。

 時代は連チャン機に規制が入り、いわゆるノーマル機、時短機時代に突入していた。『F.ウォーズ』、『F.ネプチューン』、『セブンショック』。

 この頃から私はボーダーライン至上主義となり、ノーマル機で長時間粘って稼ぐ大学1年生であった。授業をサボって新横浜のパチンコ屋へ通う日々が続いた。

 田山プロに憧れ、ジグマプロになりたい一心でハンドルを握っていた日々が懐かしい。

『パチスロとの出会い①』につづく

2008年7月31日 (木)

パチンコとの出会い②

 高校時代は部活に専念していたため、引退する3年生までパチンコは控えめだった。これには理由がある。

 陸上部に所属していた私は、怪我をしていたものの真面目に部活に参加していた。しかし、同じ陸上部に、中学時代のパチ仲間も所属していたため、休みを見つけてはパチ屋で遊ぶ日々に変わりはなかった。

 それが部活の先輩にも飛び火し、先輩を引き連れてパチ屋で遊んでいた。そんなある日、いつものように先輩に誘われ、パチ屋で待ち合わせをした。しかし、初めて行く店で場所がわからずに、私は帰ってしまった。

 翌日、その先輩は蒼い顔をしていた。聞けば部活の顧問に出くわしてしまったらしい。もし前日、パチ屋の場所を特定できていたら、私も見つかっていただろう。私は悪運が強い。

 その事件以降、部員のパチンコ自主規制が始まったのは言うまでも無い。

つづく

2008年7月30日 (水)

パチンコとの出会い①

 私は大学の4年間、一切バイトをしなかった。家が恵まれていたわけではなく、母子家庭で育った私に小遣いなど無かった。奨学金を限界まで借りていたが、毎年の授業料に消えていく。つまりは貧乏だった。

 そんな私がバイトをしなかった理由は、パチンコとパチスロの存在である。

 パチンコとの出会いは幼稚園の頃。今は亡き祖父の隣で、当時出回り始めた電動ハンドルを握っていた。一発台のチューリップに入賞させ、『筋がいい。』と褒められた記憶がある。

 小学4年生の時に祖父は他界したが、その後も祖母や母にお願いして、たまにパチンコ屋に連れて行ってもらうダメ小学生であった。

 また、私には兄が2人おり、その一人がパチンコ好きで、家にはパチンコ雑誌が転がっていた。パチンコ好きの私は、その雑誌を小学生の頃から目を通していた。

 時は経ち、中学2年の頃。ついに親離れ。同級生の悪友とともに、白楽駅前のパチンコ屋へ遊びにいった。既に閉店となってしまったが、『ジャンジャン』、『名宝』、『宝船』は青春の1ページである。

 今思えば不思議な話だが、中学生がパチンコを打っているのに、店員に注意されたことは2回しかない。いつ注意されるかわからないという緊張感が楽しさを倍増させた。

 当時の友人たちとの最大の違いは、釘を見ていたこと。幼い頃から雑誌を見ていた成果が発揮されたのだ。中3の頃、私の銀行預金残高は20万円を超えていた。それは貧乏家庭の息子とは思えないほどだった。

 当時大好きだった機種は、『ドリームX』。ドットデジタルのセブン機である。モーニング機能も搭載されていたが、当時の私は良くわかっていなかった。まぁ、勝てていたからそれでも良かったのだろう。

 パチスロは少しだけ手を出しており、『ビッグバン』、『センチュリー21』、『リバティベルⅢ』。

 羽根モノも大好きで、『どっかん島』、『たぬき丼』、『たこやき』、『汽車ぽっぽ』、『スケボーキッズ』、『Mr.フォール』、『パチンコ大将』、『うちのポチ』、『エンタープライズ』。どれをとっても良い思い出が蘇る。

 高1の頃、規制が変更され、羽根モノは15ラウンドになった。第1弾として発売されたのが『サンダードラゴン』、『ニューモンロー』。一回のV入賞で2,000発に衝撃を受け、興奮して打っていた。また、『道路工事』、『がんこ親父』などには、パンクで怒りを覚えたものだ。ちなみに、その数年後に登場した『ブンブン丸』、『花の係長』が大好きな機種である。

 この頃、『早く18歳になりたい。』と周囲に公言していた。

つづく